眠らない

起きてます

文章

いつからか、自分の書いた文章を他人に読ませたり自分で読み返したりすること、そして文章を書くこと自体がひどく恥ずかしくなってしまった。

文章を書くということは自分そのもの、そうでなくても自分の考えていることを晒していくことだろう。
書いている間は、書きながら何度も何度も自分を見つめ直さなければならない。
そして一度書き上げて公開してしまったものは基本的に変えられないから、逃げも隠れもできない。
こんなことをやり遂げられる人たちは本当に勇気のある人だと思う。

でも小中学生の頃の私は、そんなことは考えていなかった。
本を読むのが昔から好きで、そういう子どもの多くが一度は作家だとかライターだとかに憧れると思うのだけれど、ご多分に漏れず私も将来は作家か新聞記者になりたいと思っていた。
小学校の図書館では「なるには」シリーズ(今もあるのだろうか)を読んで夢想していたし、中学校の職業体験では新聞社の地域情報誌を発行する部署に行った。
今では「黒歴史」として片付けてしまいたいくらいだけれど、中学生の頃は某無料ホームページで小説や詩を公開もしていた。
その頃の私はただただいろいろな話や表現を考えることが楽しくて、それを外に出していくことも楽しかった。それだけだった。

なぜ今この恥ずかしさを感じるようになってしまったのか、特に具体的な出来事があったわけではないけれど、理由はわからなくもない。仕方のないことだとも思っている。
ただ、大学に入って脚本という形で面白い文章を書く人たちにたくさん会い、刺激されながら、それでも「恥ずかしい」と言い訳をし続けてきた自分がいい加減恥ずかしくなってきた。

このブログはそのリハビリでもある。
まだまだ過去の記事を読み返すと叫び出したくなるけれど。

白鳥

生まれてはじめてスワンボートに乗った。 大好きな女の子と一緒に一生懸命漕いだり、池の端に止めてボートの中から花を眺めたりした。 池に浮かぶたくさんのボートにはいろんな人が乗っていた。 私たちと同じように端で話し込む若いカップル。 のんびりと漕ぐ老夫婦。 ボートから身を乗り出していて少々危なっかしい男の子とお父さん。 めちゃくちゃテンションが上がっている様子の外国人男性2人組。 お父さんとお母さんの間に挟まれてにこにこしている女の子。 ボートを漕がずにたそがれている3人の中学生男子。 はねた水が服にかかり顔をしかめる女性。 日の光を浴びて居眠りをする男性。 土曜日の午後の池は平和の象徴だった。

つき

よぞらにあるきいろいまる。ときどきはんえん、ときどきさけめ。

みんなは「つき」ってよんでるみたいだけど、それ、ぼくののぞきあななんだよね。

ちっちゃいドームのなかをこのあなからみるのがぼくのたのしみなんだ。

だって、ここにはぼくしかいないから。

 

 

みたいなお話を小学生のときに考えていたのをふいに思い出しました。